ワタシの猪が死んでいく。自分は狩猟者にはなれないと思った。
久しぶりの快作だった。こういう体験記は大抵初めのころは心を大きく揺さぶられるのだがその道に詳しくなると「前読んだ本にも同じような記述があったなぁ」なんて思うのだが本書では新しい視点からとらえられた「狩猟」を垣間見えた。
ファインダー越しの「死」を思い
本書の著者である繁延あづささんはカメラマンとして活躍されており、ハンターとしてではなく完全なカメラマンとして狩猟に同行するスタイルで描き出される「狩猟」にはどこかで「ハンター+読者」から一線を画すような見方をしているように感じた。というのも獲物への駆り立てる執着や熱というよりより理智的な、僕たちという「動物」を覗いていたい…というような語りを感ずるのだ。 著者の息子さんが、自ら世話をしている鶏を来年絞め食べるつもりだといったときに筆者は「なんで殺すところで終わりじゃなくて、食べるところで終わりなの?」と息子へ疑問を投げたそうだ。息子さんもどうしてそれが終わりにふさわしいのかは言葉では言い表せずともそうすることが最善であることは直感で分かっていたことだろう。 今まで読んできた狩猟の本というのはやはりプレイヤーも著者も一緒になって獲物を追っている節があった。だが今回は違う。 言い方があっているか分からないが「母親」が狩猟についてきた という感想があっているような気がしてならない。
「ワタシの猪が死んでいく。」
ワタシの猪が死んでいく。 名文だと思った。この本を手に取った自分を褒めたくなるほどの。ある時ハンターに同行していた著者が、屠られていく猪と目を合わせてしまったという。その時に感じた「寂しさ」「悲しみ」の感情とどこかで猪に感情を寄せてしまったと本書では述べられている。 「ワタシの猪が死んでいく」 ある日突然罠にかかりどうやっても外れずそのうちに人間が遠くのほうからやって来る。「なんで外れない、どうしてどうしてどうして。」「やばい何か遠くからやって来る」そうして望まぬ死に向かい合う他人の都合でだ。同胞はもういない、この道を通った事も気まぐれだったのかもしれない。一人で死ぬ。そんな猪はどんな思いで人間と対峙していたのか。私は知りたくもない。
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